・キリリク小説

 おぞましき刀だ。
 私は、千子村正の秋水であり天下の名刀であるこれを手に入れてしまう運命に往昔からあったのだろうか。魅せられて譲ってもらったわけでもなく、元からこの家にあったわけでもない。かの西郷隆盛も所持していたとされるこの村正は、流れるかのごとく私の目の前に現れた。
 まだ私が生まれて間もない頃、父は親交のあったある志士からこれを受け取ったと言う。その志士は若い身なりでありながら病に倒れた為ひどく衰弱しており、父はそれを憐れとまでに思ったそうだ。志士は「もう自分には必要ないから」と、恐らく当時貧困にあった父を助ける為に贈ったと思われる。売れば恐らく巨万の富を得られただろう。何故ならその名刀は、その頃文政の時代にも拘らず剣豪の間でその名を轟かせていたのだ。
 しかし父はその刀を売りはしなかった。友の形見としてなのか、崩れかけた家にずっとその刀を飾っていた。それが幸いしてなのか、父は比較的裕福な家庭の女性と結婚。その後はごく平凡に暮らし、その結果私を生んだ。だが父は既に他界。母も父を追うように亡くなった。つまりこの村正は今、この私の物となってしまったわけだ。
 私がここまで村正を恐れるのには理由がある。私はもちろん刀にとても興味があるのだが、この刀だけは直視できず、さらに触れることすら叶わないのだ。触れればそれでこの刀に飲み込まれてしまうような、そんな錯覚に陥ってしまう。それは、この刀の歴史にも原因があるのかもしれない。
 この刀を持った人物で私が一番初めに知ったのは、福原竹五郎という名の藩士である。彼は特別奇特な人間でもなんでもなかったのだが、突如精神に以上を来たし自害。その時に用いられたのが、この村正だったと言う。私には彼の行動の意味が、そしてこの刀の妖しい光が分かる。長年この刀と付き添えば、私とて竹五郎と同じ道を辿るのではと考えてしまうほどに。
 そしてそれ以上に恐ろしいのが、この刀と徳川家の異様な関わりだ。家康の祖父清康きよやす、さらに父広忠ひろただは共に家臣の謀反によって殺害されているのだが、そのどちらもが村正によって血を見ている。清康はかの有名な森山崩れで死に至っているのだが、そこにはどうにも解せない謎があった。清康を討ったのは阿部弥七郎という名の武将であるが、彼はある勘違いにより彼を討ってしまったのだ。
 守山布陣の翌十二月五日の早暁だった。清康の陣に、馬離れの騒ぎが起きたのだ。その時弥七郎の父である定吉は織田信秀と内通し謀反の計画を立てているとの噂が流れていた為、「もし自分が謀反の濡れ衣で殺されるようなら、これを殿に見せて潔白を証明してほしい」と弥七郎に誓書を持たせていた。そんな時の騒ぎであったため弥七郎は父が清康に誅殺される為だと勘違いし、背後から清康を惨殺する。右の肩先から左の脇腹まで文字通り真っ二つにされ、それはそれは恐ろしい切れ味であったと言う。当然弥七郎は即刻殺されたのだが、何故か広忠は弥七郎の父である定吉を許し、そのまま家臣とした。
 これは、戦国の世で未だに解明されていない奇妙な事柄の一つである。もしかすれば、既にそこに居る全員が村正に侵されていたのかも知れない。
 その他にも、家康の嫡男である信康を死罪に処する時に用いたのも村正。家臣が誤って槍を手を滑らせ家康に傷を付けた事件があったのだが、翌々調査してみるとそれさえも村正だったと言う。それらを加味して徳川家は村正を避けるようになったが、それからは村正の切れ味を知っていた真田幸村の手に渡っている。さらに倒幕派志士達や先にも出た西郷隆盛も好んで求め使ったそうだ。
 しかし皮肉な事に、その全てが厄難としか言いようのない死を遂げている。
 それだけこの村正は恐ろしい刀であり、まるで人の心を狂わせんとするその刀身は私を奈落へ導いているかのようだ。このままこれをここに置いておけば、私はいつかこの刀を自らの喉に刺す事になってしまうかもしれない。だが、こんな刀とて父が生涯貴重なものとして崇めたものなのだ。そう簡単に手放すことは出来ない。だが、だからと言ってこのまま死の道を歩むのもどうなのだろうか? 父は、一体この刀を見て何としたのだろうか?
 私はほんの衝動から村正に手を伸ばした。何故独りでに手が動くのだ? この刀に触れてはならない。それは身と精神の崩壊を意味するのだから。だが刀はまるで私を誘うように淡い幽光を放ち、私に柄を握れと命令している。果たしてこのようなことが本当に有り得るのか? この刀はやはり妖刀としてしかこの世に在ることは出来ないのか? そして、お前はこの私さえも呪い殺すと言うのか?
 意識が朦朧としてきた。脂汗が体中から滲み出るのが分かった。手足は痺れ、まるで誰かが私の体を操っているかのような感覚だ。このままではまずい。今までの所持者の二の舞になどなってなるものか。
 しかし、その瞬間聞こえてしまったのだ。かつて呪い殺されたのであろう者達の、憎悪と怨恨の断末魔が。
 これが村正の青史なのか。これが真に妖刀と謳われる由縁だと言うのか。
 間違いない。これは魂を食う刀なのだ。この刀の誠に恐ろしきところはここにあったのだ。ただ切れ味が鋭いだけでない。ただ不遇の道を辿っているだけでない。これは呪われている。正真正銘の魔刀なのだ。
 そして私は今、この刀の犠牲者の一人となろうとしている。
 やめろ。私を喰うな。お前はもう十分に生き血を浴びているではないか。何故私を欲す? 何故私を朱に染めようと言うのだ?
 だが、返答は帰ってこない。私の手はどんどんと村正の方へ伸びている。あと拳一つ分近づいてしまえば、私はこの畳を血の海にする運命から逃れられないだろう。
 指先が震えている。滴り落ちる冷や汗が畳を濡らす。周りは無音。私は孤独の中逝くのだろうか。
 あと箸一本、その距離しかなかった。私の弓手は意に反して何かを弄るように指を動かしている。私は必死に体を引っ張るも、それが無駄な抵抗だと言う事は最初から分かっていたのかもしれない。
 私は、非業の死を覚悟した。

「経芳様、そろそろ帝国議会が始まる頃ですぞ」
 家臣の呼び掛けで、私の呪縛は解かれた。私はまるでばねの様に後退り、やっと我に返る事が出来た。
 私は自らの額を拭う。それはやけに冷えていて、その量も半端なものではなかった。心臓の高鳴りは、まだ止まない。

「……分かった」
 ふと和時計を見ると、私は愕然とした。なんと、もう五時間もあの刀を睨み続けていたのだ。なんという吸引力。私は胃がひっくり返る思いがした。

「経芳様……?」

「いや、何でもない。参ろう」
 私はおぼつかない足取りで衣服を翻し、厚い紫雲が立ち込める城下町へと繰り出す。
 半信半疑であったが、やはり村正の妖刀伝説は本当だった。人々はまだその事を知らない。もしかすれば、遊び半分にあの刀を持ってしまう輩も現れるかもしれないのだ。
 何があっても、村正を世に送り出してはならない。私はその時、そう誓った。


***

 風刺なのか、それから私は村田銃という凶器を開発してしまった。それはかの日清戦争に用いられ、我々日本軍は勝利を収めた。
 だがしかし、私はその銃で幾人もの清朝人の敬うべき命をこの手で消し去った。あの時に見た血は、恐らく一生忘れないであろう。
 村正は必ず死を運んでくる。それが自身のものなのか、あるいは誰かのものなのかは分からない。
 それでも、村正の妖気は止まる事を知らない。今までも、そしてこれからも。







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夕城様が、『Grave Story』様の運営以前に管理人をしていたサイト様の時代に、キリリクを踏ませていただきました。
そのさいのリクエストが『和風で、不思議』というもので、また無理難題を押し付けた私。。。
そんな私のリクエストを踏まえ、見事な作品を下さりました。
表現が物凄く細やかで、描写が苦手という本人の談は絶対嘘だと確信してます(ぇ
とても楽しませていただきました。
夕城様、この場でもう一度感謝の言葉を述べさせていただきます。
有難うございました!